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Title
   信仰生活をやさしくすること(2) - 信仰生活をやさしくすること(信仰生活は苦しいものではありません)(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   申 30:11-14
Date
   2010-01-17


[本文]

[申命記30:11-14]
「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

[序論]

先週は「信仰生活をやさしくすること」一番目のメッセージを伝えました。第一に、確かな目標がなければならないと言いました。そして、私の証しを少ししました。きょうはその続きを語ります。

[本論]

信仰生活をやさしくする方法は、第二に、目標に向かって移り変ることなく行くことです。つまり、途中であきらめてはいけないのです。
信仰生活において「移り変わる心」は、まことに大きい障害物です。私がすみやかに御霊の歩みに、さらに完全に入り、もっと深い霊の世界に入れたことも、私には移り変わる心がなかったからです。言いかえれば、途中であきらめなかったからです。私が今日のように深い霊の世界に突き抜けて入っていけたのも、途中であきらめたり移り変わったりしなかったからです。
韓国に、長い間祈りながら霊の世界に突き抜けて入っていこうとした主のしもべがひとりいます。ところが、神様が言われました。「彼は努力していて途中であきらめたので、結局霊の世界が貫けなかった」と。霊の世界を突き抜けることはやさしくありません。「ある程度やってみて、できないならしようがない」という心では、やり遂げられません。
私は、霊の世界を突き抜けて入り、天国についての啓示を受けるのに、けっしてあきらめたり気を落としたりしませんでした。ここまでにしようと思ったことさえありませんでした。このようにあきらめや移り変わる心そのものがないので、霊の世界を突き抜けて入ることがつらくなかったのです。当然、言葉にできない苦労と忍耐、そして、断食と祈りで種を蒔く時間がありましたが、それを一度もつらいと思わなかったのです。目標に向かって走っていくとき、途中であきらめようとしたり、移り変わったりする心がないなら、その道がつらくありません。
山に登る人も、途中で「休みたい」とか「ここら辺で降りるといいのに」と、ちらとでも思うと、その時から苦しくなるのです。一方、目標に向かって移り変ることなく行く人は、苦しくてもつらいと思いません。
本教会のある主のしもべは、子どもが重い病気で死にかけていました。愛する子どもが死の直前まで行って、もどかしい状況でした。それなのに、私がその方の顔を見たら、いつも安らかで、移り変わる姿もありませんでした。牧者への愛も、これまで一度も移り変わらなかったし、牧者に会えなければいつも涙を流す方です。そのような心だったので、子どもが死にかけていても、最後まであきらめなかったし、その心が移り変わらなかったのです。神様はこのような心をご覧になってでも、結局子どもに働いてくださいました。このようにあきらめない心、移り変わらない心は、とても大切なのです。
この前、証しを紹介した、ある女性聖徒も同じです。この方は、ご主人が神様を信じる前、ひとりで小さい子どもふたりを連れて教会に通いながらも、いつも明るい顔が変りませんでした。ですから、時になると、神様がご主人の病気をいやして、主を受け入れるようにしてくださって、今は祝福される家庭になりました。
このほかにも、いつも移り変わらず行なっている方々に一度聞いてみられますように。「信仰生活が苦しいでしょうか?」と。その方々は決して苦しいと言わないでしょう。苦しいという思いそのものがありません。信仰生活を苦しくする理由は、自分の心にあります。途中であきらめようとする心、移り変わる心があるので、信仰生活が苦しくて難しいのです。皆さんが移り変わる心だけ捨てても、信仰生活はとてもやさしくなります。ほかの真理に逆らうものも、簡単に捨てられます。
ですから、信仰生活が「苦しい、難しい」と思う方がいるなら、自分の心を一度チェックしてみられますように。自分の心に、あきらめようとする心、移り変わる心がどれほど多いのかを、です。
聖徒の皆さん、職場で一ランク昇進するのも、時にはやさしいことではありません。係長代理に昇進しただけでも、どれほど喜ぶでしょうか。ところが、数年働いてみて、早く昇進できないからとあきらめてしまったり、途中で心が移り変わってあちこち職場を移したりすれば、それほど昇進は難しくなります。
実は、私たちが変えられて新しいエルサレムに行くことは、昇進するよりやさしいです。皆さんがどうするかによって、そんなに長く待たなくてもいいし、どのように努力して行なうかによって、新しいエルサレムに入る資格をいくらでも早く得ることもできます。
ですから、新しいエルサレムへ行くこの道を決して途中であきらめたり、移り変わったりしませんように。そのような心を捨てて、目標に向かって努力していくなら、この道は難しいとか苦しくありません。むしろこれほどやさしい道はありません。
したがって、自分の中から「移り変わってあきらめようとする心」そのものを、すみやかに引き抜きますように。すると、この道を歩むとき、「苦しい。難しい」という思い自体が消えます。2010年は、このようにあきらめようとする心や移り変わる心を全部引き抜いて、信仰生活をやさしく幸せにする皆さんになるようお願いします。

信仰生活をやさしくするためには、第三に、目標に向かって楽しく幸せに行かなければなりません。
聖徒の皆さん、今度も山に登るたとえを挙げてみます。人々が登山をする理由は、たとえ登るときは苦しくても、頂上に着いたときに感じる幸せのためでしょう。それで、ある人は、高い山を征服した後は、もっと高くて険しい山を探して征服します。このように目標を一つ一つ征服していく幸せを感じれば、山に登ることを苦しいと言いません。むしろだんだん幸せになります。
信仰生活もこれと同じです。皆さんが信仰生活をしながら、その時、その時、征服すべき目標があります。たとえば、初めは一天層、次は二天層、次は三天層、そして、新しいエルサレム、このように目標を立てていきます。このように一段階ずつ征服していくと、結局は、新しいエルサレムに至るのです。ですから、一つ一つ目標を達成することがどれほど楽しくて幸せでしょうか。
ところが、ある方々は、信仰生活をしながら「自分の欠けたところが見つかって、苦しい時があります」と言います。しかし、むしろ反対にならなければなりません。私は初心の者の時から、捨てるべきものが見つかったら、幸せに思って捨てました。「私の中にこんなものがあるとは」と苦しんだり、「これをどうして捨てるのだろうか。もったいない」と思ったりしなかったのです。このように発見して捨てていくとき、自分の目標がかなえられて、新しいエルサレムへもっと近づいていくのに、なぜ苦しいのでしょうか。
たとえば、皆さんが山に登るとします。背中には重いリュックサックを負っています。登ってみると、リュックサックがだんだん重く感じられます。この時、皆さんがリュックサックを開けて、その中に全く使い道のないものが入っているなら、どうするでしょうか? 当然それを捨てるでしょう。捨てながら「もったいない」と思う方はいないでしょう。いらないものなら、なるべくたくさん捨てて、荷物を軽くしようとするはずで、誰が全くいらない荷物まで背負って登ろうとするでしょうか?
皆さんが信仰生活をしながら、自分の欠けたところを発見して捨てるのも、これと同じです。捨てるべきものが見つかったら、一刻も早く捨てればよいのではありませんか? 捨てるものがもっと見つかれば、もっとうれしくありませんか? どちらにせよ、捨ててこそよりすばらしい天国に行けるのだし、捨てるほど信仰生活がもっとやさしく、幸せになるからです。
ですから、皆さんが信仰生活をしながら、自分の悪を発見したなら、もっと喜んで感謝しますように。「私がこれをずっと持って行けば、本当に苦しかっただろうに、このように発見して捨てて行けて、とても感謝だ。早く捨てよう」と思うべきではありませんか?
皆さんがこのような心になるなら、罪を発見するのも、捨てるのも苦しくなく、幸せなことになります。聖められていくのが、楽しくて幸せです。このような人は、訓練を受けても、喜びと感謝が消えません。そこでかえって自分を発見して、さらに完全な姿に変えていきます。発見して幸せ、捨てて幸せ、変えられて幸せ・・・。これが、「こうしても幸せ、ああしても幸せ、信仰生活がいつも幸せでしかない理由」です。皆さんも、みなこのようになれます。

[結論]

愛する聖徒の皆さん、きょうのメッセージを聞いて、信仰生活が苦しい、難しいと言えるでしょうか? 「やさしい。楽しくて幸せだ」と告白するほうが正しいでしょうね? ひょっとしてこれまで信仰生活がちょっと苦しくて難しいと思った方がいるなら、今からその思いを変えてください。初めから、心そのものを変えますように。「信仰生活はとてもやさしくて幸せなものだ」このようにです。
きょうの本文に「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。』と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」とあります。
このように、私たちがみことばどおりに信仰生活していくことは、難しすぎるものではありません。さらに、どうすれば新しいエルサレムに行けるか、この教会ではとてもやさしく、確かに教えています。
ある聖徒がこのように告白するのを聞いたことがあります。「天国に行く道にある坂道と舗装されていない道に、堂会長先生が高速道路を敷かれたので、マンミンの聖徒は幸せにやさしく行けます。」はい、そうです。皆さんには、新しいエルサレムという確かな目標があります。この目標に向かって、決して途中であきらめたり移り変わったりしないで、楽しく幸せに走って行ってください。すると、必ず目ざす新しいエルサレムに至れます。
2010年は、皆さんのうちたったひとりでも、苦しく難しそうに信仰生活をする方がいませんように。みなが楽しく幸せにやさしく信仰生活をして、目指す新しいエルサレムに、ずんずん近づく祝福の年になるべきでしょう。新しいエルサレムに入れる資格を得る方もたくさん出てきますように。このように2010年は、あちこちで「幸せです。楽しいです。信仰生活がとてもやさしいです」という告白があふれますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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